朝明川に沿って八郷地区を走る三岐鉄道は、山分・平津・中村・萱生を通り抜けています。
この地は上述の4つに広永・山村・伊坂・千代田を加えて8つの郷、八郷村といいました。その昔、平津駅の地は伊勢國朝明郡八郷村大字平津字畑屋でした。
三岐鉄道は字の通り、三重岐阜を結ぶ鉄道だったのですが、実際には富田西藤原と三重県内です。その理由は後で述べます。
物の輸送に最も省エネ、エコなのは1番に船、鉄道、自動車ですが、昭和初期頃は自動車は普及していませんでした。三岐鉄道の運転開始は昭和6年7月(1931年)のことです。今から80年程前のことです。
現在三岐鉄道は富田、大矢知、平津、萱生(あかつき学園前)、山城、保々と駅がありますが、そもそもこの構想が持ち上がった昭和2年11月、当時の構想「藤原鉄道株式会社創立事務所設立」にあります。
当時、地元実業家伊藤伝七方に事務所を置き定款・目論見書を作成しました。目論見書の目的は、鈴鹿山脈は巨大な褶曲(しゅうきょく)山脈であり、藤原岳の山頂からは貝の化石が出るくらいで、良質の石灰岩の山でした。これからの産業の基盤を担う・鉄とセメントは国家にとって重要な資源であり、このセメントを生産し、運送するということで、昭和3年(1928年)6月鉄道敷設(ふせつ)免許が下りました。
これを機に目標は大きく膨らみ、当初は四日市関ヶ原から若狭(わかさ)まで、最短距離で太平洋と日本海を結ぶというもので、満州国からの物流の大動脈となる期待がありました。
そのため7月には会社設立発起人会を東京丸の内鉄道協会において、小野田セメント、浅野セメント、伊藤伝七3者の計600万円の資本金で9月には会社名も三岐鉄道株式会社と改称して立ち上げたのです。
年末には鉄道建設予定地の実測に着手。その時の敷設計画では、現在のJR富田駅から西に向かって大矢知、現在の広永橋付近で朝明川を渡って、広永・山村・伊坂・千代田・大鐘にいたるルートでした。
現在とは大きく違います。そのルートを変更したのが平津の人でした。
昭和5年(1930年)の鉄道敷設計画は富田~大矢知~大鐘~大長のルートでした。
ところが大鐘村の村人は先祖伝来の土地を鉄道に売り渡すことに反対されたようです。そこで路線変更をすることになり、この時平津の先祖が大いに尽力したのです。
八風街道の富田から約1里(4キロメートル)の平津の集落は、格好の休憩地で今でいう「道の駅」でした。一休みしてまっすぐ菰野方面、千代田橋を渡って次の町梅戸(井)村へと続く分岐点でもありました。
当時の人々は荷車を引いて、あるいは肩に荷物を担いで坂道も越えたのでした。八風街道は(国道421号線)滋賀県東近江市武佐(むさ)宿(しゅく)までですが、鉄道を使えば関ヶ原から日本海まで行くことが出来る。
夢は大きく膨らみました。鉄道の駅を平津におけば東西から集まる人や荷物を運ぶことができるからです。それで平津に駅をおくために鉄道路線と駅舎用地を提供する人が現れたのです。
その結果、当初の計画にはなかった平津駅が誕生しました。会社設立から丸3年で鉄道は開業しました。関ヶ原への乗り入れは時代の変化により無くなりましたが、開業当初は蒸気機関車や気動車を使い、地元の期待にあふれてスタートしました。
三岐鉄道の貨車は国鉄と同じ線路規格だったので、全国を駆け巡りました。藤原の石灰石を、小野田のセメントを積んで全国へ配送されたのでした。
しかし、昭和12年(1937年)7月「盧溝橋事変」が起こり、以降時代は戦時色が濃くなり、その年、西藤原関ヶ原の免許は失効し、昭和17年(1942年)には国策により鉄道事業は縮小しました。
戦時中は大きく衰退した鉄道も、戦後は周辺の宅地開発などにより、通勤・通学の人を運ぶ路線となりました。車両の動力も蒸気機関車→木炭→ディーゼル→電気と変化しました。
これから先、三岐鉄道の路線も最初に目標とした、太平洋から日本海へと最短距離で結ばれる日がくるかもしれません。
【資料提供者】大矢知誠さん・「三岐鉄道50年のあゆみ」より