大賀(おおが)賢(けん)励(れい)揮毫の石碑

中村町「能原神社(のはらじんじゃ)」の西北角、タバコ店前にある石碑は、江戸時代朝明郡に生まれ、明治期に三重県を代表する文化人・教育者であった郷土の偉人大賀賢励が社名を書いたものです。大賀賢励は号を旭川(きょくせん)と言い、文政二(1819)年朝明郡大鐘村の大鐘山浄円寺の長男として生まれました。
仏教哲学や漢詩・書などに勉学を重ね、忍藩大矢知陣屋において藩士の教育や、その後開設された忍藩興譲館教頭などを経て、私塾「半学舎」を開きました。
全国より1,200人余の若人が学び、開設から30年間に政界・財界などへ多くの人材を輩出しました。
満86歳にて永眠。


石碑には、
・正面:延喜式内(えんぎしきない)能原神社
・右面:是より壱町五十五間
・左面:周旋人 村方中 建立 宮守中
・裏面:旭川学人大賀書
・台座裏:この碑を建てることに尽力した近隣村々の人の名
が彫られています。

 


麹(こうじ)の道しるべ

大賀賢励揮毫の石碑から西へ10メートルほど来た電柱の下に小さな石碑が立っています。
これは江戸時代~明治時代に立てられたもので、左:垂坂 右:萱生道と刻んであります。
萱生方向へ行けば八風道から近江への道。
垂坂方向へ行けばその当時、麹で有名な垂坂村へ至ります。

垂坂は鈴鹿の河曲玉垣村、飯野郡中万村と並んで伊勢麹の大産地でした。
垂坂村は中世より伊勢神宮外宮に毎年一石二斗の酒麹を納めていたという記録が残されています。(神鳳鈔)
垂坂の麹を求めて近江商人や、三河商人がこの石碑を頼りに往来したことを表すモニュメントとして残っています。