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  " 山分天満宮・金縄山覚王寺・八風道を訪ねて 

8月20日(火)13時から2時間に亘り八郷歴史研究会主催による第3回八郷地区の歴史探訪会「山分天満宮・金縄山覚王寺・八風道を訪ねて」を開催しました。猛暑日にも関わらず夏休み中の子供さんとの親子連れも多数参加し、約30名の人が参集され熱心に見学しました。

■■ 山分天満宮 ■■

1.山分町の歴史と天満宮の成り立ち(五回の遷宮)

山分町の名称は明治時代以前には存在せず寛永15年(1638年)までは伊勢国朝明郡広永村(桑名藩領)の一部でした。その後、昭和28年(1953年)四日市市に合併し山分町になるまで幾多の歴史を経て現在に至っており、天満宮も山分の変遷に添うように五回の遷宮を重ね昭和47年に今の社殿になりました。

<以下その経過を年代を追って詳しく説明します。>

■寛永16年(1639年)広永新田名主 川村平左衛門 平兵衛氏兄弟が桑名藩の許可を得て朝明川北岸の開墾を行う。伊勢国朝明郡広永村より独立、枝郷広永新田が生まれた。
■正徳元年(1711年)戸数19戸、88名。延亨2年(1745年)戸数21戸 100名。
字天神に最初の天神様が祭られたと思います。
■文化7年(1810年)「天満宮」の扁額を賜う。文化7年10月16日の銘。桑名の殿様の父、白川藩主 松平定信候の書。
■文化8年(1811年)「天満宮奉造営上屋水門(すいもん)とある。(平兵衛新田)
■文化10年(1813年)「遷宮鎮座」天神より水門に移された。
■文政7年(1824年)広永新田村字水門に鎮座。以下の神を合祀。
東神明社 天照大神 西神明社 豊宇気混売大神 大山?神
水門の所在地は現在の泉鋳造の工場西方跡地に西神明社の石碑が残されています。
水門地内は朝明川の氾濫が江戸時代には多くあり、神頼みのため「水神さん」を祀ったようです。
(明治時代以降)
■明治5年(1872年)戸数56戸 262名。
■明治22年(1889年)朝明川より南の大矢知の枝郷、山添村の一部と川の北側の広永新田が合併し三重郡八郷村広永新田となる。八郷村は広永、伊坂、山村、千代田、萱生、中村、平津、広永新田の8か村が合併。
■明治37年(1904年)9月24日朝明川の南側へ天満宮を遷宮。この時の天満宮は現在の山分町第一集会所の東辺り。当時の八郷村尋常小学校の東側に遷宮されました。(跡地の石碑あり)
■明治39年(1906年)原敬内相の提出による(6月勅令第220号)神社統合令が発布。
この地域の多くは明治40年・41年に広永穂積神社に合祀が済んだ。千代田鶴沢神社、山村布(ふ)自(じ)神社もこの時期に合祀された。合祀した神社の石碑が物語っている。
■大正10年(1921年)広永新田村は山分と改称され、三重郡八郷村山分となる。
■昭和25年(1950年)神社統合令が解除され、分祀された。山分はご神体のみ公民館へ遷宮されました。(今の社務所の以前の建物)
■昭和28年(1953年)四日市市に合併。四日市市山分町となる。
■昭和47年(1972年)公民館が落成。天満宮御神殿が落成。鎮座。
■平成2年(1990年)天満宮の拝殿および付帯設備が造営され、神域も大矢知崇様の寄進により神社庁公認の「山分天満宮」となる。
■平成10年(1998年)新しく第一集会所が落成。以前の公民館は社務所となる。

 

2.主祭神 菅原道真公について

山分天満宮には主祭神 菅原道真公 が祀られています。他に配祭神として天照皇大神、豊宇気混売大神、大山柢大神、戦没者御霊が祀られています。

菅原道真公は平安時代の前期に活躍した学者であり政治家でした。宇多天皇、醍醐天皇の両帝に仕え右大臣にまで出世し左大臣藤原時平と共に朝廷の政治を執り行い、藤原氏と並ぶ貴族となりましたが延喜元年(西暦901年)おそれを感じた藤原時平の策謀により、大宰府権師という地方の副所長の地位に降格されました。
深い失意のまま2年後延喜3年(西暦903年)大宰府にて没します。

そのせいか、都では地震や日照りなどの天候不順や、御所のへ落雷など異変が続きました。人々はこれは菅原道真公の怨霊がたたっていると噂し、宮廷の人々もそれを信じ、道真公に神位を送り、919年墓所となった大宰府の陵の上に社を建て990年には正式に大宰府天満宮としました。

都でも947年北野の地に天満宮を建て菅原道真公をお祀りしました。これが北野天満宮のはじまりです。その後、道真公の高い学識を慕い江戸時代頃には遺徳にちなみ学問の神様として信仰を集めるようになり全国に分社が置かれ約12000社があり今日も広くお参りされています。
ちなみに四日市市内では、山分天満宮と菅原町にある菅原神社の2社だけです。

 

3.山分天満宮の例祭


■広永穂積神社に合祀


■「天満宮」御神殿


■八郷村尋常小学校の東側に遷宮


■見入る参加者


■■ 
金縄山覚王寺 ■■


金縄山覚王寺(元円覚寺)は浄土真宗本願寺派 西本願寺末です。
創建時期は定かではありませんが明治五年(1872年)の寺院明細帳には十一世聞誓、先住義円長男とあり、その時善照寺(三重郡朝日町埋縄に現存する)の頃には十一世祐慶、先住実乗長男と記してあるのでおそらく善照寺とほぼ同時期に創建されたものだろうと思われます。

明治5年以後円覚寺は一時廃寺となりましたが明治16年四日市町(三重郡八郷村大字山分146の28)へ移り、寺名を金縄山覚王寺と改めました。昭和の初め頃の寺院明細帳には「朝明郡広永新田字山分一四六覚王寺、眞宗本願寺派 本尊阿弥陀如来 京都府上京区二十三組竹屋町より明治16年7月17日移転許可」と記されています。

その後、大正15年6月2日本堂全焼。改築許可を得て本堂を再建し今日に至っています。本堂再建中は庫裏や書院を本堂代わりにしたとのことです。檀家は朝日町中心ですが毎月16日のお講と、1月9日の報恩講には多くの町民がお参りされています。又服部御住職は長年夏休みの間、小学生に読経を教え子供たちがお寺に親しむよう続けておられます。

 
■戦時中農繁期の間、元婦人会が託児所代わりに小学生を覚王寺に集め世話をしました。

 


■大正十五年六月本堂全焼の際、鐘楼は火災から免れた。屋根の一部が黒い焼け跡を残している。


■現在の本堂


■ご住職の奥様からお話を聞く参加者

■子供たちにお経を教えるご住職
                        <文献> 昭和48年朝日町史


■旧山分町地図 (写真をクリックすると拡大地図をご覧頂けます)

八風街道とは滋賀県(近江)と三重県北部(伊勢)を結ぶ鈴鹿山脈越えの街道。中世には南方の千草街道とともに,近江商人が伊勢路へ出る重要な通商交通路でした。近江八幡や八日市方面から,御園(みその)・山上(やまがみ)を通って相谷(あいだに)の永源寺に至り、それから山道を政所・葉尾(ゆずりほう)と八風谷をたどって鈴鹿山脈の八風峠を越えれば朝明(あさけ)川沿いにすぐ伊勢平野に出る。蒲生郡八日市方面のいわゆる近江商人はここから桑名を経て美濃にまで商圏を広げ,京・近江の産物を売る一方美濃・尾張からは、紙,木わた,塩,ノリ,ワカメ ,魚類,布など多種多様の商品を仕入れ,近江各地に売りさばき,定期的に京都にまで行商しました。

近世期の江戸時代に日本各地に街道網が整備され、伊勢国北勢地方では東海道五十三次と参宮街道以外に八風街道が早期から整備されていました。江戸時代の八風街道は桑名藩領朝明郡富田六郷富田一色村を起点として、松原村→大矢知→平津(八郷)→田光(朝上)を経て滋賀県愛知郡東小椋に至る、延長距離5里町57間(約25km)の道路でした。

八風街道は近江商人が荷物を運び賑わった街道で、富田-平津-田光-八風峠に通ずる道路を本街道といい、桑名-馬道-大社-梅戸-田光-八風峠に通ずる道を脇街道といった。
滋賀県の米原と三重県北部の北勢地方の四日市市と桑名市地域の伊勢湾を結ぶ街道。鈴鹿山脈の険しいルートを越える街道。中世 期には南側の菰野町の千草街道とともに伊勢国-近江国間の重要な街道でした。近江商人が伊勢に行く伊勢商人との通商手段で重要な交通路でした。

近江八幡市・東近江市→御園・山上→相谷の永源寺→政所・杜葉尾→鈴鹿山脈の八風峠→朝明川沿いの四日市市北部の伊勢平野に出るルート平津→大矢知間に山分町があり商店が立ち並び賑わいを見せていました。

 


■山分町の八風道街並み


■丸玉味噌醤油店工場内

<資料提供:村上操夫、大矢知誠、大矢知俊子 他 敬称略>