■八郷の人はいつごろから勉強を始めたの!

江戸時代には今のような学校はなく、また明治に入っても暫くは学校ができませんでした。
そのころの子どもたちは「寺子屋」で勉強をしていました。お寺でお坊さんや物知りの方々により「読み書き、そろばん」を教わっていました。八郷の人は寺子屋のあった大矢知や北山へかよっていたようです。
明治5年に学制が公布され国民平等・国民皆学が掲げられ、そして明治7年大矢知にできた「興譲館」に大矢知、下之宮、川北と八郷村全村がかよいました。

■開学当時の大矢知興譲館

■卒業記念写真

■八郷にも学校の前身が!

その後明治9年に八郷地区にも学校が作られることになり「開明学校」が認可を受け中村、萱生と下野地区(中里、西大鐘、東大鐘)の5か村が共同で作り、萱生の安養寺を使ったり、篤志家の家を借用したりして位置は度々変更されました。
その後明治12年に教育令が制定された頃、「開明学校」は下野地区と別れ萱生の安養寺で勉強し、ここに萱生、中村、平津、千代田が通いました。その後12月に平津に校舎が新築され「致精学校」が創立されました。

■萱生の安養寺

■八郷尋常小学校

■「致精学校」に続き「穂積学校」も創設!

同じ明治12年に「穂積学校」も創設されました。最初は山村の説教所や広永の集会所を使っていましたが、この年11月に広永に校舎を建てたということです。
その間いろいろ変遷を辿りましたが、明治19年に文部大臣より小学校令が公布され、これは16か条からなり、以後の教育制度の基礎になるものでした。それは小学校を尋常・高等の二段階とし、尋常の4年間を義務制としました。

また所によっては簡易科授業所を置くことを認められ、修業年限は3年でよく、穂積・致精両学校とも小学校簡易科授業所となりました。簡易科は村費で賄うため、村では負担が大きかったのでした。明治23年10月に小学校令が改正され簡易科が廃止されましたが、八郷は明治25年まで廃止されませんでした。この時、小学校長という職が制度化されました。

■山分に学校が設立された。致精・穂積学校を併合!

日本の教育制度が確立された時、そして遂に八郷地区にも明治25年6月1日、今までの穂積・致精の両簡易科を解散し、広永新田(現山分)は大矢知より分離し、3年前に町村制実施で八郷村が成立したのを機に山分の地に今の八郷小学校の名称につながる「八郷尋常小学校」が設立されました。現在の山分町集会所の南側の畑のところです。この近くには山分天満宮もありました。天満宮の跡地には石碑が建っていますが、学校の跡形は見られません。

明治45年4月に現在の地に新校舎が建つまで八郷地区の人々は学びました。この学校建設に当たっては当時村長の島豊太郎氏(山分)、後に助役となる平田祐十郎氏(千代田)の功績がありました。現在の校地には後の村長になった平田武氏(祐十郎氏長男)とともに三氏の功績を称える頌徳碑が建てられています。

■八郷尋常小学校

【八郷尋常高等小学校尋常科卒業生】 (四日市市平津町・昭和6年)
尋常科を出ると、高等科か中学校、あるいは高等女学校か、と家庭事情と相談して決めることが多かった。

■八郷尋常小学校跡地

■旧八郷小学校

■学校建設に功績した三氏

■養雲寺山の遠足風景

■周辺地図

地図は明治24年帝国陸軍測量部「桑名村」地図より転載


【写真提供者】
鵜野良一さん 大矢知誠さん 八郷小学校HP・学校誌「あゆみ」より転載